3. 精神のインプットとアウトプット



  (1) 語ること:


  人間は、唯一”言葉”を使用する動物である。イルカやサルなども互いに音波でコミュニケーションをとるが、大脳皮質が発達して、圧倒的に複雑な言語を用いることができるのは人間だけである。さらに、人間は”霊的な”生き物である。それは、語る言葉に霊が宿りうるいわゆる言霊(ことだま))からである。 神は”言葉の神”であり、また ”霊的な存在”であるから、神の姿に似せて造られた人もそのようである。(他の動物には霊が無い)


   「人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。」(創2:19)

   「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。」(出エジ14:15)

   「人はその口の実によって良いものに満ち足りる。」(箴12:14)、 「生と死は舌に支配される。」(箴18:21)

   「だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じる(確信する)なら、そのとおりになります。」(マコ11:23)


  人が罪に陥る以前は、アダムとエバのように礼拝を通して神との交わりがあり、聖霊様を通しての神との霊的な言葉のコミュニケーションができたと思われる。そして、主の臨在の中で彼らの語る言葉はみな祝福された。 ノアの洪水後のバベルで、神が人間中心主義(人本主義)を打ち砕くために言語が混乱するようにされ、この混乱ののろいは イエス様の十字架によって解かれ、再び一つになって回復し、これが”異言”であると言われている。天国では一つの言語になっている。

  「語る」ことは「思い」よりもはるかに強いものである。(「心に満ちたことを口が語る」) また、人は、「語る」言葉によって、義とも罪ともされる(ように、霊的世界が動いていく)。
  だから、自分の内側がきよめられ、内なる聖霊様が強く現れてくださるためには、みことばに基づく告白を積極的に「語り」続けることによる。語ることによって、たましいの内側が変えられことができる。 一方、否定的、非聖書的な言葉は決して口に出してはいけないのである。語る言葉の影響力は、その人が今までどのような言葉を語ってきているかによって、その人の今の状態がわかるほどである。それほど、語る言葉には注意しなければならない。(チョー・ヨンギ師は、否定的な言葉ばかり語る人とは、悪影響を受けるので話をしないと言っている。) 最後の審判のときも、生涯語ってきた言葉について、主に対し 申し開きをしなければならない。 もし、あまりにも幼くて、否定的な(不信仰な)言葉しか語れない場合は、黙っていた方が良い。(出14:14) 悪い言葉には悪霊が伴う。(伝10:20)

  四次元的な言葉を「語る」ことは神様から与えられた啓示を語ることであり、これは人間に与えられた特権である。そして言葉は3次元世界を支配することになる。 神様からの示しや、知恵の言葉、知識の言葉、預言という「啓示の賜物」は、それを口に出して「語る」ときに、神様からの油注ぎが解き放たれる。(逆に、油注ぎがあるか、聖書的であるかどうかで、それが神様からのものであるかどうかを吟味する。)



  (2) 見る事:


  人の脳は、視覚野と認識野が後頭葉にあり互いに近い。(cf. 言語と意志は前頭葉にある。) 視覚野では、目で見る形状や文字、色などをすばやく捕らえて、聴覚 などよりも多くの外部からの情報を認識して判断する。(サルの動体視力は人間の10倍あるそうである。鷲は数100m先の小さな獲物を見つける。)
  しかし、人は霊的な存在なので、”霊的な目”が聖霊様によって開かれたならば、神からの重要な多くの情報を視覚的に受け取るのである。
  人の五感によるインプット機能は、視覚(見る・読む)、聴覚(聞く・聴く)、触覚・皮膚感覚、嗅覚・味覚などであるが、このうち、「見る」ことによる情報量が最も多い。しかし、夢や幻をを見るなど、「見る」事の中に、明らかに精神的なものや霊的なものが含まれている。


   「ヤコブは、ポプラや、アーモンドや、すずかけの木の若枝を取り、それの白い筋の皮をはいで、その若枝の白いところをむき出しにし、その皮をはいだ枝を、群れが水を飲みに来る水ため、すなわち水ぶねの中に、群れに差し向かいに置いた。」(創30:37、38)

   「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」(U列2:10)

   「多くの者があなたを見て驚いたように、その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。そのように、彼は多くの国々を驚かす。・・・」(イザ52:14、15)

   「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。」(ヨハ5:19)


  ヤコブが兄エサウを逃れ、おじのラバンのところで家畜を飼っていたとき、ぶち と まだら の木の枝を羊や山羊の水飲み場に差し向かいに置いた。ヤコブはこのぶちとまだらの枝をいつも「見て」これを通していつも家畜を見ていた。 ヤコブの潜在意識は以前の失敗と貧困と欺きでいっぱいになっていた。(葛藤は多く、報酬は少ない状態) そこで 神様は、彼の潜在意識を変えようと、木の枝を道具として用いられたのである。そして、彼は寝ている時でさえも、彼の頭の中は ぶちとまだらの木の枝の映像でいっぱいになっていた。 すると、家畜にさかりがついて、ぶちとまだらの毛の山羊だけが増え、それらはすべて彼のものになり、彼の家畜は非常に増えていったのである。 この「ぶち と まだらの木の枝」とは、キリストが流された血潮で染められた十字架の予型の一つであり、ヤコブは「霊の目」で、イエス様の十字架の贖いを、「見る」ことによって受け取っていたのである。(十字架を通して「見る」事)

  預言者エリヤが天に引き上げられるとき、エリシャは彼の姿を「見る」ことができた。その直後エリシャは、エリヤが着ていた外套を水に打ち付ける「行動」をとったので、水が2つに分かれるというしるしを受け取った。このようにして、エリシャに預言者の油注ぎが与えられ、エリヤの後継者となったのである。

  そして、イエス様は、神の第2位格でおられるにもかかわらず、ご自身からは何事もなされず、常に、御父から示される「幻」を「見て」、そしてその通りにみわざを「行な」われた。これは私たちへの模範である。

  「見る事」は、「所有する事」である。 人の「精神」は、一部が「霊の世界」に重なっている。したがって、精神の目で物事を見続ける努力をし、ある時 それに重なって、神様からほんの少しの「霊的ビジョン」を示されたならば、それは実現する。

  フランシス・ハンター師は、「見ること」について、次のように勧めている。

  もしあなたが、”いやし”が必要ならば、見なさい。
  もしあなたが、”お金”が必要ならば、見なさい。
  もしあなたが、”解放”が必要ならば、見なさい。
  もしあなたが、”結婚相手”が必要ならば、見なさい。
  もしあなたが、”家族の救い”が必要ならば、見なさい。
  もしあなたが、”教会成長”が必要ならば、見なさい。
  もしあなたが、”事業の成功”が必要ならば、見なさい。



   (あかし)

  ・ 昔、インドネシアで、キリスト教の宣教師たちが村人たちに、村の家の白壁をスクリーンとして映して、キリストの映画を見せた。宣教師たちは奇跡や癒しなどの御霊の賜物の働きが現在も起こることを認めない宗派に属していたが、現地の人々は、その映画の中でキリストが癒しや悪霊追い出しを行なっているのを「見て」、彼らも同じように病人に手を置いて癒しと悪霊追い出しを行い、そして実際に人々は癒され、悪霊は出て行ったのである! あまり文明化されていなかった彼らは、現地の祈祷師が癒しを行なうことに慣れていて、キリストの癒しについて、子供のような単純な信仰を容易に持つことができたのである。聖霊様は彼らの信仰を通して働かれた。

  ・ チョー・ヨンギ師も、ハンター夫妻も、いやしのミニストリーに立つとき、いやしの「幻」が内側からほとばしり出て、そのとき「語る」と会場でわざが起こった。(* 語るとき、初めて聖霊様のご臨在が解き放たれる事に注意) チョーヨンギ師は、自分に与えられているのはいやしの賜物ではなく、知恵・知識と預言と言っている。(〜が悪い人がいます。(知恵・知識) 今癒されました。(預言))

  ・ また、メル・ボンド師は、病気の根である悪霊を 霊の目で見分け(霊を見分ける賜物)、イエスの名によって追い出し、それからいやしを祈る。その後は、祈られた人々は、病だったところに何らかの信仰の行動をして完全に癒されるのである。メル・ボンド師は、手をかざして、まず、手から癒しの光線が出ることを精神の目でイメージし、そして主の油注ぎによって癒しが起こる、という方法をとる。この方法は、アメリカなどの、直接手で触れるといろいろと問題が出る国の場合に有効であり、メル師はこの方法を常用している。(彼が用いるみことばの根拠は、「輝きは光のよう。ひらめきはその手から放たれ、そこに力が隠されている。」(ハバ3:4))

  ・ チャールズ・ハンター師が妻のフランシス師とともに聖霊のバプテスマを受けてまもなく、みことばから、イエス様がガリラヤ湖畔の山で、大勢の病人たちを癒された箇所(マタイ15:29−31)を読み、当時彼が会計士事務所に出勤しても、この箇所が非常に強く残り、実際に体験しているかのように霊が燃え立つのを感じた。その1ヵ月後、フロリダ州のカリスマではない教会に招かれ、神様は驚くべき力を現し始めた。 ある14歳の少年が前に出てきて、親指が第一関節で切れている手を差し出し、彼は神様に新しい親指を伸ばしてほしいと言った。ハンター夫妻は彼の両手を出させ、その違いが分かるようにし、イエスの御名によって親指が伸びるよう命じ始めた。彼らは”伸びろ、伸びろ”と叫び続けた。会衆は椅子の上に立って興奮しながら見ていた。 すると、ある時突然、指がゆっくりと伸び始めたのである。人々は、指の先がもう一方の指に沿って伸びていくのを見た。(爪も青白い光を放って伸びていくのを75人が見た。) 翌朝(日曜日に)、人々はその少年の指を見て、親指が完全に生えているのを確認した。(ただし指には爪が無く、昨夜見た光る爪は幻のみだった。)

  ・ 20世紀初めのアメリカンドリーム。 米国 カーネギー鉄鋼会社(現在合併して USスチール)の後継者は、チャールズ・シュワプという人物だった。 彼は、小学校しか出ていなかったので、”雑用係”として雇われた。しかし彼の心の中では、「主人意識」を持って、未来の成功した姿(=この工場は私のもの)をいつも「見て」いた。彼は毎日、工場の隅々まで掃除し、自分が工場の主人であるかのように整理整頓した。初めは彼の周りの人々はあざ笑ったが、次第にその誠実さが認められ、ついに正社員に抜擢された。その後も同じ熱心さと「主人意識」をもってすべてに最善を尽くした(「自分の畑を耕す者は食料に飽きたり、」(箴12:11))ので、カーネギー社長は感動し、彼を秘書に採用した。彼は、「5メートル行けと言われれば10メートル行き、下着をほしがったら上着もやる」という心情で働かなければならないと心に決めていた。 カーネギーが引退する頃になると、有名大卒者や名門の子供などが後継者としてうわさされたが、実にこのチャールズを後継者に指名し、世界を驚愕させた。
  (* ただし、彼は一時は世界有数の金持ちだったが、”どこまでも突っ走るタイプ”の人だったので、1929年の大恐慌で多額の負債を抱え(1939年時点でで30万ドル以上)、晩年は安アパート暮らしを余儀なくされた。しかし あと数年生きていれば、戦争特需のため株価は回復して、会社の再生を見ることができたはずであった。(「勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。」(箴21:5))

  ・ チョー・ヨンギ師のところに50歳くらいの婦人が入って来て、突然大声で泣き出した。話を聞くと、彼女の娘がヒッピーに成り下がり、主人の友人や息子の友人と相手構わず同棲し、ホテルからホテルへ、ダンスホールからダンスホールへと渡り歩いているというのである。母親はいろいろ手を尽くし、また主に祈ったのであるが状況は変わらなかったそうである。チョー師は、彼女が神様に対し、非常に悪い青写真・・・”売春婦の絵” を提出していたことを告げ、彼女はその通りだったと答えた。 そこで、”想像のキャンパス”をきれいさっぱり洗い流して、新しい絵を描くことを勧め、十字架を通して娘を見る事を導いた。
  十字架の上で苦しみ血を流し、祈っておられる主イエス・キリストを見上げ娘を十字架の陰に隠しその血によって ぶち と まだら になった十字架を通して娘を見るよう想像させた。チョー師もそのように想像して、主に祈った。すると、母親は、今は違って見える、イエス様を通して、十字架を通して、娘の姿が変わってしまった、と言った。このようにして、娘のイメージが一変し、彼女は帰るときには別人と思われるほど、満面微笑みながら出て行った。
  それから2、3ヵ月後、チョー師のところに彼女は娘を連れてきた。娘は、ある日いつものようにホテルで男と一夜を過ごしていたが、翌朝、なんともいえないみじめな、むなしい思いが湧き上がってきて、家が恋しくなり、追い出されることを覚悟で一度家に帰ることにした。母が喜んで出迎えたので2人は抱き合ってしばらくの間泣いた。それから、娘は2、3ヶ月の間 熱心に教会の説教に聞き入り、すべての罪を告白をして、ついに救われ、聖霊様のバプテスマも受けた。そして、結婚して3人の子供を授かり、教会の区域長として熱心な伝道者となっている。


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